ブロスの中にある一番古い記憶は、夜空に青い燐光を放って舞う、月光蝶だった。
幼い日のブロスは標準より丸っこい体型で、視力も悪く分厚い眼鏡をかけていた。運動神経も良くなかったので、同年代の闊達な子どもたちと比較して自分自身に劣等感や諦めを抱えていた。
そのせいか、夜行性の美しい月光蝶に憧憬があり、夜の森で月光蝶を捕まえては、虫籠で飼育し、亡骸は標本にして大切に保管していた。
病に伏せっていた母は、月光蝶の標本を見てブロスの感受性に共感し、ブロスのとりとめない話を楽しそうに聞いてくれた。記憶の中の母は、いつも優しかった。
『くだらん趣味だ。その図体はなんだ? みっともない。部屋から出てくるな』
父の言葉にある鋭い棘。母が生きていた頃は、母が上手にそれを消してくれた。だが母は病死し、父のそういった性質をいなせる者はいなくなった。父は詠人──学者一族の支配者のように振る舞い、誰に対しても、とりわけ一人息子のブロスには強い口調で、高圧的なものいいをした。親戚や使用人は、けして父に逆らわなかった。
ブロスが大事にしていた、蝶の標本を、父はすべて燃やした。『生産性のあることをしろ』と言われ、父にブロスが殴られたときも、誰も何も言わなかった。暖炉に無造作に投げ込まれ、灰になった標本たち。優しい母と月光蝶の標本を眺めた思い出も、灰になって崩れていくようだった。ブロスは火の消えた暗い暖炉の前で、ひとり涙を拭った。
以來、燃え盛る炎と、殴られた傷み、灰になってゆく大切な思い出がブロスの心の原風景になった。
脳裏にその光景が浮かぶたび。『大切なものが灰にされるくらいなら、はじめから持たない方がいい』と考えるようになり、何事にも無感動になってしまったように思う。
大好きだった月光蝶。『きれいね』とほほえむ母の優しい笑顔。記憶の中にしか残っていないそれらを思い出すたび、寂寥感とともに、胸が締め付けられた。
◇
『父は常に正しい』という妄信的な思い込みが解け、自分の違和感が正しいとわかったのは、親元を離れてしばらくしてからだった。対等な関係、自分の意思が尊重される場に馴染むほど。自分は父に疎まれていたのだということを実感する。
父のことを思い出す。口の中に血の味と、もう無いはずの痣の痛みが蘇る。
『おまえのような屑はどこにいっても通用しない』 『おまえのような醜い人間は誰からも愛されない』
父の口癖だった。暴力とともに投げられるこの言葉には、物理的な傷みが伴った。当時のブロスは無力な子供であり、柔らかな心は痛めつけられ、未来に呪いをかけられる。あまり楽しい思い出ではない、痛みと灰色の記憶。
ブロスは、心に鉛の雫が落ちるような過去の記憶を、本物の灰に──その心の奥にこびりついた炎で、燃やしてしまいたかった。
あたり一面に降り積もる、真っ白な灰。ブロスの行き場のない感情をくべ、炎は轟々と燃えさかる。
その炎はやがて、自分をも包み、灰となって、何も残さず消える像《ビジョン》。
『何にもなれない』『誰にも愛されない』という呪いを、父にかけられた心。 幼い頃から、すべてを灰に変える炎の像《ビジョン》が脳裏に焼き付いている。静かな諦めは、人生の様々な場面で蘇り、ブロスの意識にわだかまりつづけていた。
